“ゆめ”は、古き時代には“いめ”と呼ばれていたといいます。「熟寝(うまい)」という言い方もあるそうで、“い”は“寝る”の形容詞で、「寝ながらに目にすること見ること」が“寝目(いめ)”という言葉だそうです。目覚めている時の経験の大部分が、片っ端から忘れ去られていくように、夢の大部分も目覚めと共に忘れ去られてしまいます。聖徳太子が“夢殿”にこもったり、平安・鎌倉時代には石山寺・長谷寺・清水寺に人びとが参拝したのは、“夢”をかなえてもらう為だと言われています。夢に託すことは非常に意味のあることで、手相や人相によって自分の”夢“を教えてもらう風潮が近代文明社会と言われる現代でも残っています。鎌倉時代の北条政子は、ご自分の妹の見た”夢“を吉夢と思い、鏡や小袖と引き換えに”夢を買い取ってしまった“と曽我物語に書かれています。「夢かふ人の事」という言葉も宇治拾遺物語に出ているということです。いまここで、日本語を学んでいる方々の”夢“は、なんだろうかと考えてみました。何のために”日本語を学んでいるのか“と言うと、それは”自分の夢の実現の為“であることは間違いがないと言えます。壊れる夢もありますが、その壊れる数よりも、さらに多くの”夢“を持つことが出来れば、心配をすることはないと思います。ただし実現できれば、と言いたいのですが、”持ちきれないほどの夢“を持って、勇気を道連れに出かけてみましょう。江戸時代、沢庵禅師という方が人生の最後に書いたのが”夢“という文字であったという話しがあります。死の直前まで”夢“の文字を書いたといわれています。もちろん禅師が書く言葉なので、意味深いものであることは察知が出来ます。さて自分の”夢“はなんだろうと、東京の夜空を見上げるのは、・・これを記述しているwataru君なのです。
(wataru君)