皆さんは『非認知スキル』という言葉をご存知でしょうか。
2000年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマン教授(James Joseph Heckman)が証明した能力で、IQやテストの結果などのように数値化されないスキルのことです。
例えば
1、自主性
2、計画性
3、完遂する力
4、コミュニケーション能力
5、共感力
6、TPOにあった行動
といったもの。
これらは社会生活で必要とされるものばかりです。
数値化できるスキルの獲得を中心に行われてきた日本の教育ですが
非認知スキルは、現在、教育現場でも大変重要視されています。
数値化される認知スキルと違い、目に見えないものばかり。
両スキルのバランスを以ってよりよい教育といえる気がしますが、その獲得に対しての試行錯誤は今後も続くことでしょう。
さて、日本語教育で、それらをどうするべきか考えてみました。
ぐるりっとの教室にやってくる生徒は、保護者に連れられてが最初の一歩です。
就労等の切羽詰まった何かが目の前にある大人と違い
学びたい意欲を漲らせ自らドアを叩くわけではないので、全ての生徒が必ずしも学びたい意欲が満ち溢れている
とは言い難いのですが、それでも日本語を習得する必要性を各自がそれぞれにおいて感じている様子で
その生徒なりに日々学習に励んでいるのは違いありません。
生徒が「学びたい!」と思っていない状態で教師が教えすぎても、生徒に残るものはありません。
言語指導の初期に於いて言葉はツールであり、次の一歩へはそれを使って何をしたいのかに本人が自ら行き着くことが大切です。
日本語を使ってやりたいことが分かった時、初めて学びの意味を理解する様になり
学びの欲求が増していきます。
私は日本語のテクニックを示すだけではなく、生徒の様子を見守りながら
彼らが日本社会に於いて、非認知スキルが磨いていける手助けでありたいと思っています。
例えば「空気を読む」力は日本社会では重要なスキルである一方で、いかなる場でも直接考えを主張する国々とは異なるものです。
以前、こんな体験をしました。
多国籍の人間が集まり、ある催事の手順を決める会議に参加していました。
進行役の方が意見を求めた時、すぐさま私以外の全員がサッと挙手をして大変驚きました。
それら一人一人の発言は必ずしも発展的なものではなく、単なる催事への感想を述べる人も多くいました。
また「それってさっき誰かが言ったよね」的な発言も散見し、それでも挙手をして重ねて同様に述べ続ける彼らの意図が私には全く分かりませんでした。
司会者の提案から外れた時間の無駄にしか思えなかったのです。
日本人の私にとって、同種の意見は公の場で重ねて何度も述べるべきではないことが常識でしたが
会議の後、何人もの人に「どうして発言しないの?」と尋ねられ、結果、同種の意見であっても皆の前で自分の意見を述べることに会議の目的があることに気がつきました。
しかしながら、多数決を取る様な二者択一の前座ならともかく、日本人の中でおおよそ求められない行為であることはお分かりですよね。
自分の意見を述べるという一つの所作であっても、非認知スキルの高さとはどうあるべきか
経験で察することはもちろん理想ですが、察しないままでは果ては単なる異端者になってしまいます。
日本語の授業での様々な場面提示を通して、日本社会での非認知スキルを獲得しつつ学びの向こう側にある彼らの可能性を引き出すお手伝いができたらと願って止みません。
(by.EF)