最近続けてボブ・ディランの「風に吹かれて」を耳にすることがあった。デビュー60周年ということもあってのことだと思うが、直近で聞いたのは、ある若手(30代)アーティストがゲストとして出ていたラジオ番組だった。‘好きな曲’としてリクエストをし、好きな理由を「過去や未来のことを考えてクヨクヨせず、今を生きていこうと思わせてくれるから」と語った。そのような受け取め方もあるのかと意外(疑問)に思い、改めて歌詞を見返してみた。
♪どれだけの道を歩けば、男(人)は一人前と認められるのか
どれだけの海を渡ったら、白い鳩は砂浜で眠れるのか
どれだけ多くの砲弾が飛び交ったら、永遠に禁止されるのか
山が海に浸食されてなくなるまで、どのくらいの時間がかかるのだろうか
ある人々が自由を許されるまで、どれほどの時間がかかるのだろうか
人は何度顔を背け、見なかったフリをするのだろうか
空を見ることができるようになるには、あと何回見上げなければならないのか
人々の叫びを聞くことができるようになるには、いくつ耳を持たなければならないのか
あまりに多くの人々が死んだと気づくのに どれだけの死がもたらされるのか
60年前に21才の若者が、公民権運動に対する思いと理不尽な世の中への疑問、怒り、そして見て見ぬふりをする大人たちへの批判を直接的、象徴的に表現したものと解釈するのが自然だろう。いくつもの問いかけの後に、「♪友よ、その答えは風に吹かれている、答えは風に吹かれている」と歌う。
ラジオでこの曲が好きだと言った若者はどれほどその時代を理解しているのか疑問だが、「いろいろ思い悩んでも仕方がない、とりあえず今日を生きていこう」と考えるのも自由ではある。
「答え」については、作った本人は「風の中の紙切れみたいで、地上に降りてきても誰にも見られず理解されず、また飛んでいってしまう。」と話している。その時々でニュアンスが変わるようだが、「答え」があっても解決にはならないという諦念が感じられる。
今世界のあちこちで起こっている出来事・現象(戦争<砲弾どころではない核の脅威を孕む>、貧困、差別、人権侵害、気候変動による災害・・・)を思うとき、60年前よりマシになったとは言えず、下手をするともっと前の悪い時代に戻ってしまうのではないかと危うささえ感じる。新型コロナウィルスの出現とも相まって、先の見えない不安な気持ちをかかえての息苦しい日々をどう生きていくのか?
『「答え」は「問い」そのものの中にある』と言った哲学者(元は禅の「答は問処在り」)に従って、‘一人一人が真剣に自分の頭で考えて判断し、行動する’しかないのかもしれない。
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