国家資格「登録日本語教員」の資格を得るための第1回日本語教員試験が
先月17日に実施された。
日本語教育の世界に新時代到来となるのだろうか。
さて、私が日本語教育の端っこに身を置いてから20年超が経った。
最初は日本語を教えるための勉強から。
日本語を話せるからといって、即、教えられるものでないことは、
日本語を学習中の中国人と文通したときの経験からわかっていたから。
日本語を外国語として見たとき、自分が日本語を知らないことを知った。
と同時に、知らないけれど正しい意味で使っている不思議に気づいた。
知らないのに知っている、という感覚は、自然習得した母語ゆえなのだろうか。
外国語としての日本語を知る面白さに、すっかりはまった。
日本語を教えるとき、未習の語彙と文型を使わない、説明しない、と
口酸っぱく言われたのが印象的。
また、目的の語彙、文型を使いたくなる場面を設定することの大切さも学んだ。
模擬授業では、各受講生の創意工夫が見られて、自分の当番のとき以外
大いに楽しんだ。
説明しないため、場面設定のため、絵や実物を用いたり、事前に仕込んだり、
手作り感満載で面白かった。
手作り感満載というのは、インターネットがようやく定着し始めた頃で、
教材が豊富に手に入る時代ではなかったから、調達できないものは自作するしか
なかったためでもある。
そういう意味では、動画の登場は画期的だと思っている。
必要な語彙を覚えてもらうために替え歌を利用することがある。
以前は下手な歌を歌って聞かせるしかなかったが、動画を使えば、伴奏つき、鮮やかな
映像つきの上手な歌、しかも替え歌だけでなく、そのために作られた創作曲まで
視聴させることができる。
日常の場面を見せたり、会話を聞かせたりもできる。
あー、いい時代が来たものだ。
日本語を教えるために習ったことを実践できてきたかどうか、甚だ心許ない。
それに、教育のあり方も語彙、文型詰込み型から、コミュニケーション力を高める
方に重点を置くように変わった。
その変化に対応するのは大変だし、第一、年少者に大人相手の方法論は必ずしも
通用しない。
だから、未だに適切な指導ができている気がしないというのが正直な気持ち。
おまけに、便利なデジタル教材を満足に使いこなせない人間だし、
いつまでしがみついていようかと自問する今日この頃である。
(ecu)