新型コロナウイルス感染拡大予防対策として小中高校が休校となっています。
ぐるりっとの二つの教室(おおたこども日本語教室/日本語ぐるりっと子ども日本語教室)も休講としています。
世界規模に拡大化し、まだ収束のめどの付いていない人類初めてのウイルスということで、社会は困惑状態です。
手洗いやうがいを励行し人との近接触の機会を自粛することが、せめて個人ができることと自覚し、不安を抱えながらも家での時間がタップリある日々が始まりました。
「色々考えることややることがありそう~」とぼんやり考えていた、休講に入って間もない日、ある大手放送局から電話が入りました。
記者:「学校が休校となっていますが、こんな時に支援していらっしゃる教室の様子をお聞きしたいと思いまして…」
私:「えっと…、私どもの教室も休講としているのですが…。」
記者:「えっ、そうですか?!」
「それでは、どこか、やっている教室をご存知ないですか?」
私:「さあ~、現段階では知りません…。」
記者の方は、ちょっと予想外だった様子で電話を切りました。
同じ日、現在は通室していない子のお母さんから電話がありました。
「子どもが休みで、家では勉強しないので教室でみてもらえませんか?」
やっていないと分かるとお母さんはとてもがっかりした様子でした。
どちらも、当然(?)やっているだろうという思いが感じられました。
ぐるりっとのような役割には「自己犠牲的な貢献」も期待されているのでしょうか。
『日本語ぐるりっと…コロナウイルスにもめげず、子ども支援優先!』というような見出しでメデイアに登場…そこに『先生が感染し重篤化!』などという内容がプラスされれば更に美談としてメデイア受けするのかも…などという妄想に陥りました。
高齢者の多いぐるりっとには、もちろん自分で自分の命を守る発想があります。
利他的センチメンタリズムよりも現実を見る必要があります。
「感染予防対策」とは何か…活動・行動の抑制…それは一斉に行うことに意味があるわけで、部分的であっては意味がありません。
つべこべ文句を言わず、まず協力するという選択肢も国民には求められることがあるということではないでしょうか。
欧米諸国(特にフランス)のストライクには、権利の主張と共にこうした一斉に行うことに意義を見い出す暗黙の協力の風習(?)伝統(?)があります。
通勤・通学や経済に悪影響を及ぼすからやめて欲しいと内心思っていても、多くの人は黙って状況に従います。
そこには創意工夫する、協力し合う、という新たな発想が生まれる機会が(!)
こうした経緯があり社会保障も整備されてきているようです。
人気のない小道を散歩し、車が止まっている車庫、人の気配を感じる窓辺、家族一緒の姿、が以前より多く見られるようになってきたと感じます。
コロナ休暇は、危機を乗り越えるための判断(トイレットペーパーやマスクの買い占めに走るのは残念…)が求められると共にゆったりとした時間の流れも提供しているようです。
しかし、命へのリスクや休みたくても休めない方々、放置されている子ども達等のことを考えると、悠長に構えることはできません。
(tph)