アメリカで起こった事件から世界中に広がった”Black Lives Matter”の嵐。
日本で日本人として生活している中で、差別される側の立場を体験する方はかなり少数ではないでしょうか。
しかしながら、私が過去に生活した諸外国に於いて日本人が差別されることはそう珍しいことではありませんでした。
差別は受けなければ分からない悲しみです。
自分の存在を同じ人間として受け入れてもらえていないのだと感じた時、それは絶望です。
私自身、それが初めて身に起きた時はあまりにもショックで声が出ず、抗議もできず、その後自宅で大声をあげて泣きました。
泣いても何も解決はしませんでしたが。
私たちが接する外国籍の子ども達が日本語を学ぶ時、日本語を学びたい強い思いや直向きさ、進学などのはっきりとした理由があればそれは学びの弾みとなるでしょう。
一方で、漠然とした中で学習を強いられることであれば、そこに進歩を得るのは難しいことです。
私たちは日本語を教える行為を通して、日本の習慣や事象を示します。
日本を知ることで学びに興味や楽しさを抱いて欲しいと思ったり、マイノリティとしての何らかの溝を少しでも感じずにいられる様にと願ったり、習慣の違いから想像できなかった日本社会との軋轢を回避する道筋の一つになるのではと思うからです。
“Black Lives Matter”は、コロナ禍という抑圧環境が様々な不公平や鬱積した疎外感を爆発させた部分もあると思います。
時折紙面等で目にする日本での差別問題を解決させたり、社会を急激にフラットに変化させることは難しいかもしれません。
とはいえ、私たち一人一人が他人事と片付けずにいることが住み良い社会を作るのではないでしょうか。
何もしなくては、何も変わりません。
せっかく縁あって日本にやって来た子ども達。
日本が大嫌いになってほしくありません。
コロナ然り、世界はもはや一つ。お互いが繋がることで成り立っている社会です。
自分の価値観のみを是とせず、常に互いを認め合うことを大切にしたいと自分自身を省みるこの頃です。
(E.F)