ふと「手紙」について書こうと思いました。
私は決して筆まめではありません。どちらかというと不精の方ではないかと思います。
更に、自他ともに認める悪筆。
もらった側のことを考えれば、メールの方がはるかによいだろうという思いもありますが、書く内容を色々と考え、下書きをし、清書をし、封筒に入れ、封をするという過程を経て書き上げたものをポストに投函する時、「やってやったぞ」というなんともいえぬ満足感と達成感があります。
「やってやった」、というのは、自分が伝えたいことを納得する形で相手に伝えられたということ。
実際に伝わっているかどうかは別の話なので、完全に自己満足の世界です。
(そういう意味では、書くこと自体が好きなのではなく、書き上げた後の満足感が好きなだけとも言えます。)
手紙であっても、レポートでも、このブログであっても、「言いたいことが伝わるだろうか」というのは誰もが思うところであり、悩むところです。
しかし、手紙の場合は内容の良し悪しではなく、送る相手ただ1人が基準というところがポイントです。
そして、実際面と向かって会話しているわけではないので、自分が納得できるまで考えられるというのも良いところではないでしょうか。
私は割とタイピングが早い方なので、手紙の下書きには専らパソコンのメモ帳を使っています。
思考をそのまま文字にしたところでわかりやすい内容になるはずもなく、「あの人が読むのだから」という前提で悩みながら文章を考えます。あとで清書をすることを考えると文章量も調節しなければなりませんし、年齢や性別や背景で伝え方も表現も変わります。
切り貼りして、前後の文章を削って削って、時に付け足して…そうやって、自分の中でOKがでて、ようやく葉書や便箋の段階へと進むわけです。
悪筆ついでにせっかちな私は、一度の清書で手紙が完成することはまずありません。
修正テープやイモムシでごまかせる相手はOKですが、そうでない場合は緊張も加わるのか、ペンを持つ手が(本当に)震えます。
2枚の手紙を書くのに3枚くらいは書き損じが出ることもざらです。
こんな苦しい作業をしてまで、手紙を書く意味はあるのだろうか…。
いっそのこと、パソコンで書いたものをそのまま印刷すればいいじゃない。…というか、もうメールでもいいじゃない。
そんな繰り返す自問自答すら、紙一重。
それすら何故か「相手のことを考えた時間」なのだいう錯覚がおこり、自己満足が加速するスパイスになるのです。
授業の中で、住所・宛名の書き方以外で「手紙を書く」ことは、ほとんどしたことがありません。
よく教科書で「国の家族に手紙を書きます」という例文があるのですが、生徒たちは手紙は出さない。メールもしない。QQやSkypeで電話をすると話します。
文字のやりとりも、今はメールよりもLINEの様なメッセージアプリが主流ですが、長文を打つことは逆に野暮なようで、チャットのように短いやりとりを続けるやり方が主のようです。
今回手紙について書こうと思い立ったのは、相手に伝わるように考えて、それを試行錯誤しながら1つのまとまった形にアウトプットしていくという流れが、コミュニケーション全般に関わる重要な要素ではないかと感じたからです。
手紙という形でなくとも、時間をかけて、自分の気持ちや考えを相手に伝わる形にまとめていくことが、コミュニケーション能力の基礎になっていくような気がします。
ぐるりっとに来ている子ども達は小学生から中学生。
コミュニケーションに必要な思考やスキルを、生活の中で学びながら成長していく世代です。
時に母国語でもままならないコミュニケーションを、外国語である日本語を通して行うというのは、実に時間がかる大変な作業で、面倒に思うことも多いでしょう。
しかし、直感的に短い時間で発することができる電話や文節のやりとりだけではない方法に意味や楽しさを見出すことができたら、得るものはきっと大きいだろうとも思います。
マンツーマンでの授業時間の中、生徒が話したいというサインを発した時は、なるべく受け取れるように心がけたいですし、可能な限り時間をかけて話を聞いていきたいです。
できればそれを自分で文章にしてもらって…と欲張ると本来の授業が進まないのが悩ましいところ。
しかし、かけた時間が、何かのきっかけになれば良いなと思います。
(N)