年明けから年度末までの数ヶ月間、四月から小学校1年生に入る男の子とお勉強をしました。
その子は母国で幼稚園の様な学校に通ったことはないとのことで、日本での小学校が初めての集団生活となるようでした。
自分の持ち物を自分で管理する習慣すらなかったその子(と家族)にとって、持ち物一つ一つに細かく名前を書く、自分の荷物を自分で管理して、自分でカバンから出してしまう。
呼ばれて「はい」と手を上げる。みんなと一緒に行動する。前の人について、並んで歩く。…初めての経験となることはどれくらいあるのでしょう。
教室でできることもありますが、実際に集団行動の中でしか体験できないことの方が遥かに多いと感じます。
学校へ行ってからは、きっと驚きの連続になるのだろうな…と思いながら、最終日に「頑張って!」と送り出しました。
私にとっても、言葉以外の学校生活の部分に思いを巡らすことが多くなった数ヶ月となりました。
ぐるりっとの教室では、「にほんごをまなぼう」という小学校生活がよくわかる教科書を使っています。
また、日本の子ども達が就学前に読むような、学校生活紹介の絵本やフリーの教材等も使いながら、学校に入ってから必要な日本語とは何か。学校で必要な動作ができるようになる為には…と考えながら授業をしています。
根底にあるのは、はるか昔自分自身が同じ小学生・中学生であったという経験と記憶です。そこに、「今は違うんだ」「こうなっているんだ」ということを追記していく様な形で、私の中の「今の学校」というものが出来がっています。
しかし、コロナ禍になって生活様式に変化があったこと。生徒一人一人にタブレットが支給され、通信機器を利用したやりとりが行われるようになったことなどで、私が思う学校生活と、実際のとのギャップが、徐々に…というよりは、一気に広がってしまった様な気がしています。
(運動会や学芸会など、地域の方が見学OKな機会がなくなり、学校の空気を肌で感じる瞬間がなくなったということも大きいと思います。)
教室に来ている現役小学生の女の子に話を聞いてみたり、新しく会員になられた方のお子さんに話を聞く機会がありました。
・学級閉鎖の時は「オンライン上」で朝の会が行われる。
・時間割は2週間ごとに変わり、各自がタブレットから学校のページにアクセスして確認をする。
・運動会は学年ごとに曜日を変えてやった。
・夏休みに社会科で歴史新聞を書く宿題があった。でも、その新聞は手書きではなく、タブレッ
トで作成。タブレットから学校に課題を提出をした。
などなど。
ただただ「へぇー!」となるばかりで、それがどう授業に結びついていくのか。
コロナ禍から通常の生活に戻っていけば、元に戻ることもあるでしょうし、元に戻らず、それが新しい形として定着していくものもあるでしょう。古いものと区別して「今の学校」を上書きさせる程には、十分ではありません。
しかし、「だいたい同じだから大丈夫」と、知らないままでいると、このギャップはもっともっと広がり、いつの間にか埋められないものになってしまう様にも思います。
何と言っても、ベースとなる「まなぼう」の教科書。初版が1992年のものなのですから。
ふと思ったのは、タブレットやタイピングの時間や課題が増えるのであれば、教室ではより「書くこと」を大事にしないとな、ということでした。
結局はそんな些細なところからです。
知ろうという気持ちは失くすことなく、やれることを探していこうと思います。
(N)