雑草と言えば、会社勤務の時に、肥料を担当したことがあり、雑草には悩まされた経験がある。当時、雑草の処理には手間もコストも掛かっていた。雑草には生命力があり、処理しても処理してもまた、生えてくる。それは雑草魂というのに相応しく、何度でも再生する。最近、無農薬で家庭菜園をやっているが、悩ましいのが雑草である。
そんな雑草のイメージを一転させたのが、NHKの「らんまん」で語られた「雑草という草はない」という言葉だった。自由民権運動の活動家の自由について、リーダーが演説する場面で、「役立たずの雑草」という言葉に、万太郎が「名もなき草はこの世にはない」と返した。また奪われた標本を取り戻す場面でも、万太郎は「雑草には天から与えられ、持って生まれた唯一無二の名がある。どの草花にも必ずそこで生きる理由がある」と言った。
私は雑草について、身近なところで、子供たち、特に外国から来た子供達にも言えることだと思う。子供一人ひとりに、唯一無二の名前があり、生きる理由がある。自然界から学んだ教訓が、身近な世界にも通じると思う
同様の考え方は、SMAPの「世界の一つだけの花」にもみることができる。「ナンバーワンにならなくてもいい。もっと特別なオンリーワン」の歌詞がそうだ。曲をつくった槇原敬之は活動を謹慎している時に、この歌詞が浮かんだそうである。
子供たちに対して、大事なことは人と比べてナンバーワンになることではなく、自分を見つけて、自分らしく、一生懸命に生き、成長することだというメッセージだと思う。特に、外国の文化をベースに持っている外国から来た子供たちには大切なことだと思う。多くの子どもたちは、自己が確立される前に、日本に来て、異文化の中での生活で自分自身を見失うこともあると思う。縁があって来ている日本の環境の中で、少しでも自己を見つける為の力になりたいと思う。
名もなき小花について詠んだ啄木の詩「黄の小花」(詩集あこがれ)を読み直してみた。
「夕暮野路を辿りて、黄に咲ける
小花を摘めば、涙はせきあへず。
ああ、この身この花、小さくも
いのちあり、また仰ぐに光あり。
この野に咲ける、この世に捨てられし、
運命よ、いずれ、大慈悲の
かくれて見えぬ恵みの業ならぬ。」
小花は人に顧みられることがなく、それでも生命があって野に咲き、そして散っていく・・・
人間の一生もその花と同じであることを、啄木は感じとったのである(啄木うた散歩 山本玲子著)。名もなき小花への啄木の気持ちが伝わってくるように思う。
われわれに感動を与え、時には癒してくれる雑草や花もあれば、目にとまらないで終わっていくものもあると思う。しかし、雑草や花は名の有無に関わらず、生きて続けている。自分らしく、生き続けることが大切だと思う。自分の回りにいる子供たちにも、自分らしさを見つけ、雑草や花のようにたくましく育ち、生きてほしいと心から願っている。
(TM)